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[1]ラッシャー
【ポケモン哲学】
はじめまして、ラッシャーと申しますm(__)m
「厨ポケ狩人しょうまさん」の「本当にあった〜」に書き込んでいるときに
『なんか、これ怖い話じゃないな…』
と思い新しくスレたてました
とりあえず>>2を見てくださいm(__)m
08/31 21:00
[2]ラッシャー
ある説では、ポケモン世界の人間もすべてポケモンの先祖である『ミュウ』が産み出したと…
そもそも、ポケモン世界の人間とポケモンの関係は、人間と動物のような関係だと思います
つまり、この世界で人間が動物であるように、
ポケモン世界では人間がポケモンの枝分かれであるのかも……
そうなるといずれ人間もモンスターボールに…
とまぁ内容は2ちゃんのコピペから引用してます。
このことを色々話したく思いました
色々書き込んでくださいd(*´∀`)b
08/31 21:14
[3]あああ
ミオシティ図書館に面白いことが書いてありましたよ。
08/31 22:02
[4]一滴の万物生
興味深いのできてみました。読んだんですが…主のそれは都市伝説という奴ですな。哲学とはコピペを貼って終わるようなそんな単純なものではないんですよ…。
早速ですが…何故ポケモンは人間に使役される必要があるのでしょうか?答えは自明…される必要などそもそも無いのです。しかも、ポケモン側には何の利益も無く、トレーナーに只働き同然で(生きていけるだけの食料はあるが…)指示に従う訳です。では何故ポケモンはトレーナーの使役を良しとするのでしょうか?
もちろんここで「只の慈悲深い架空上の生物だから。」という結論はつまらないですよね。自分の想像を限界まで膨らませてみるとまた違った結論と巡り会えるんですよ。こうやって自分が疑問に思った事を自分で考え、自分で結論を出すのが哲学なのだと私は思います。とりあえずこのまま結論まで続けます。
――それは二つ程理由が挙げられるだろう。一つ目はどんな生物にもおそらく備わっているだろう「好奇心」という奴だ。我々はこの世界で幾多のモノと出会う。その多くの中に偶に、もしくは度々、「これについてもっと知りたい!」と思う事があるのではないだろうか?それが好奇心という奴なのだ。ポケモンも同じく「このトレーナーの事がもっと知りたい!」と思い、トレーナーとの生活によってそれを、いや、それよりも奥深い何かを手に入れたいのではないだろうか?
二つ目は、いわゆる「絆」という奴だ。一つ目の延長みたいなものではあるが、そこには明らかな違いがある。前者は厳しい使役をも覚悟の上での潜入捜査のような印象を受けるが、後者は最近見られる友達先生のような印象を受ける。そこには明らかな主従関係があるが、それがまるで無いかのように友達感覚で接している。これは驚くべき光景だが、よく考えてみればこれはあり得る事である。
例えば、千利休の「茶の湯」が挙げられる。利休の招き入れる茶室には客人用の低く小さい入り口があった。一見するとただの設計ミスに見えるが、実はそうでは無い。利休の考えた画期的な入り口だったのだ。どういう点で画期的なのかというのがポイント。入り口から入る客人を想像してみて欲しい。低い入り口から入ろうとするとどうしても腰を低くしなければ入る事ができない。…そう、利休は「どんな身分の人でも茶室(茶道)の中では皆平等である」という自分の考えを実現させるべくこの入り口を考案したのであったのだ。
あの豊富秀吉もこの茶室で一服したらしい。しかし、残念ながらこの「茶室の中の平等」がどうも気にくわなかったらしく、利休はその後切腹を命じられてしまう。
だがそんな戦乱の日本では無くなった今、この友達先生的現象は各地で、日常的に目撃されている。いつか形だけの平等が、形は主従関係だけれど内面は平等であるという様な時代が来るのかもしれない。
なんかエッセイぽくなってしまいましたww
ちなみに最後の方は一種のロマンを込めたまとめにしてみたした。読んでいて吐き気がした場合は責任はとりませんww
長文失敬致した!
09/03 20:35
[5]ポケモン好っき
私は子供の頃からポケモンはモンスターボールで洗脳されているのだと感じていました。
アニメのポケモンでは今まで主人公達に警戒していたポケモンがボールに入った瞬間、今までずっと一緒にいた仲のようになついているんです。
私はそんなポケモンが嫌いでした。今ではゲームだからと割り切ってあそんでいますが、今でもそう感じています。
だから、サトシのピカチュウこそ、人間とポケモンの本来のあるべき姿だと思います。
言うなれば、ポケモンは人間にとって道具ですね。
でも、子供にとっては良い友達であることは間違いないでしょう。
今ポケモンで遊んでいる人達にはこれを通じて環境問題にも目を向けて欲しいですね。
09/23 13:37